二条城
【創建・由緒】 慶長8年(1603)徳川将軍家康が京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626)に完成。 家康が建てた慶長年間の建築と、家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることが出来る。 【見所】 二の丸庭園:護岸石組 鶴島亀島、神仙蓬莱、座視観賞式、廻遊式、三尊石組
慈照寺(銀閣寺)
正式名称は東山慈照寺。足利家8代将軍足利義政が建造した別荘「東山殿」にはじまる。この東山殿から東山文化が発祥し、後の日本文化に多大な影響を与えた。庭園は特別史跡、特別名勝に指定されている。西芳寺(苔寺)の庭園を模して造ったとされ、上段は枯山水庭園、下段は池泉回遊式の庭園で中央に錦鏡池が広がっている。しかし創建当初の庭園の面影が残るのは銀閣(観音殿)と東求堂のみとされる。銀沙灘・向月台は江戸時代以降のもので、銀沙灘は光の反射率の高い白川砂を用いており、太陽や月の光などの自然の光の反射を室内の明かりとして採り込む役目を果たしている。向月台は坐して月が昇るのを待つためのものだという。 その他の見どころ 西芳寺の瑠璃殿を模して作られた観音堂(銀閣)。屋根は柿(こけら)葺き、内部は2層になっており下層は心空殿といわれ書院造風、上層は潮音閣といわれ仏殿風。二つの異なる様式が融合した東山文化を代表する建物。 国宝である東求堂。近世書院造の現存する最古の遺構であるといわれている。 銀閣寺垣と呼ばれる、まったく見通しのきかない高い生垣の下に造られた高さ90cmの竹垣。 銀閣寺形手水鉢
伏見稲荷大社(松の下屋庭園)
大覚寺(旧嵯峨御所 大覚寺門跡)
【創建・由緒】 弘法大師空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。正式には旧嵯峨御所大覚寺門跡と称し、嵯峨御所とも呼ばれる。平安初期、嵯峨天皇が檀林皇后とのご成婚の新室である離宮を建立されたが、これが大覚寺の前身・離宮嵯峨院である。 嵯峨院が大覚寺となったのは、皇孫である恒寂(つねさだ)入道親王を開山として開創した貞観18年(876年)。嵯峨天皇の長女・正子内親王が大覚寺と号した。 弘法大師空海のすすめにより嵯峨天皇が浄書された般若心経が勅封(60年に1度の開封)として奉安され、般若心経写経の根本道場として知られる。明治時代初頭まで、代々天皇もしくは皇統の方が門跡(住職)を務めた格式高い門跡寺院である。 応仁の乱で衰退後、天正期の空性、元和期の尊性の時代に、衰退した大覚寺の再建に取りかかり、寛永期にはほぼ寺観が整えられた。 いけばな発祥の花の寺でもあり、「いけばな嵯峨御流」の総司所(家元)でもある。 【庭園見どころ】 日本最古の滝石組・名古曾(なこそ)の滝/遣水/夜泊石/庭湖石/神仙蓬莱思想
醍醐寺
【創建・由緒】 真言宗醍醐派の総本山。貞観16年(874)聖宝が山上に草庵を結び准胝(じゅんてい)如意輪両観音像を彫刻・安置したのが始まり(上醍醐)。 延長4年(926)下醍醐が開かれ、釈迦堂、五重塔などを建立。応仁・文明の乱の戦火で五重塔を除く堂塔伽藍を焼失したが、慶長3年(1598)豊臣秀吉の花見をきっかけに再興された。 上醍醐の准胝堂は西国三十三ヵ所第11番札所だが、2008年に落雷により焼失。納経は現在、金堂で行われている。 創建時の五重塔、桃山時代に移築された金堂、および上醍醐の薬師堂はいずれも国宝。絵画では絹本著色五大尊像(国宝)など多数の文化財を所蔵。2月23日の五大力さん、4月第2日曜日の豊太閤花見行列は有名。1994年(平成6)12月「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録された。 【三宝院庭園・見どころ】 鶴亀蓬莱形式、回遊式、舟遊式、建物からの観賞式 信長・秀吉愛好の名石「藤戸石」 三段の滝、三尊石組
西本願寺
虎渓の庭(対面所庭園):鶴亀蓬莱様式 洞窟形式の護岸石組 具象的な亀頭石 三尊石組 反橋
修学院離宮
借景
桂離宮庭園
織部燈籠 桂垣 池泉廻遊式 真の飛石(真の敷石) 洲浜 松琴亭 岬燈籠 天の橋立 市松模様 笑意軒 三光燈籠
勧修寺
舟遊式