コラム

都をどりとも関係があった!?京都博覧会と復興の志

京都市歴史資料館

元々歴史に興味のあった私は、前から京都市歴史資料館に行ってみたいと思っていたところ、夏休みになり、時間もできたので、先日ようやく行ってきました。

資料館では明治初期の京都の復興に関する特別展が開かれていました。
その特別展で私は「京都博覧会」という万博のようなイベントが京都で開かれていたことを初めて知り、明治時代にこのようなことが行われていたことを初めて知ってたいへん驚きました。
京都博覧会は京都復興事業の一環だったのです。

京都の復興

明治初期、天皇や上級公家、有力商人らが相次いで東京に移られ、公家や有力商人に依存していた商工業が大きなダメージを受け、経済が停滞します。
そんな中、京都府知事の長谷信篤ら政治家や、商人など町人身分の人々をはじめとする、京都に住む多くの人々が「京都をどうにかせねば、もっと良くせねば」と思って努力し、租税免除を勝ち取り、産業基立金や勧業基立金など資金を得て博覧会を開催するまでに至り、京都は復興を果たすことができました。

京都博覧会とは?

京都博覧会

明治維新による京都から東京への遷都により、京都市民は衰退への危機感を抱き、京都は暗い雰囲気になった。
これを払拭するため、京都府知事長谷信篤が豪商の三井八郎右衛門、小野善助、熊谷久右衛門らに主催させたのが始まり。
最初の開催地は西本願寺。
昭和初期まで計56回開催され、産業振興に貢献した。

明治4年の最初の京都博覧会では新発明の品があったわけではなく、骨とう品を集めて展示したものでした。
しかし、なんと1万人以上の人が集まったそうです。
私は博覧会というと大阪万博の「月の石」のような希少な物があると思っていたのですが、ほぼ骨とう品ばかりなのに一万人もの人が来るなんて信じられず、当時の京都にとって「博覧会」というものがいかに目新しく珍しかったかということを実感しました。
翌年の博覧会では外国人の入場を初めて許可し、入場者が3万人を超えたとのことで、当時の人口から考えると驚くべき盛況であったと思いました。

都をどりと博覧会の関係

実は、博覧会は春の風物詩、都をどりとも関係があるのです。

明治5年、京都副知事であった槇村正直が京都博覧会に娯楽性が必要であると感じ、杉浦次郎右衛門に協力を仰ぎました。
杉浦は三世井上八千代などと共に、集団で行う舞を考案し、同年の博覧会で実施されたのが都をどりの始まりです。
これは京都博覧会のイベントのうちの一つだったのです。
あまりに予想外だったので驚愕しました。
そして都をどりは今では京都の一大イベントとなっているのですが、これが100年以上もの長い間、途絶えることなく続いていき、現代に至るかと思うと、非常に感慨深いものがあります。

復興の志

博覧会も都をどりも結局根底にあったのは「京都をどうにかしたい、より良くしたい」という思いだったのです。
シンプルだけれどとても熱い思いです。
この思いを持った人々のおかげで京都はピンチを切り抜けました。
このような熱い思いが今の京都の発展にもつながっていると私は思っています。
つまり、京都博覧会を開催しようとした人たちの様に、「今、京都を良くしたい」と考える熱い人たちがいるからこそ、京都は発展を続けて行けるのだと思います。
その意味で京都博覧会は現代の京都とつながっているのではないでしょうか。
私もいつか、何らかの形で京都に貢献できたらなと思っています。

投稿日:2015.09.04

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